17:45頃早々に仕事を切り上げて新橋まで地下鉄に乗り、汐留から築地まで歩く。目指すは浜離宮朝日ホール。今日は高橋悠治のバッハの日である。会場に着くとモモさんは既に到着していて物販を物色していた。下のTULLY'S COFFEEでサンドイッチを食べて小腹を満たし準備万端。物販でエイベックス・クラシックスから出た高橋悠治の新録のゴルトベルクを買う。ホールに戻って席に着き、誰か知っている人は来てないかという話になって回りをキョロキョロしていると2階席に植野さんと清美さんがいるのを発見して手を振り合う。前方には10年くらい前モモさんがWAVEで働いてた時にクラシックコーナーにいたという金子さんという人が座っているらしい。開演。大工の棟梁みたいな赤ら顔で高田渡みたいなざっくばらんなもよもよした服を着た高橋悠治が、舞台袖からひょこひょこと出てくる。初めはイタリア協奏曲。高橋悠治のピアノの一音目はどんな時でもおもむろ過ぎる、あり得ないタイミングで開始される。それは何というか、何かが自然の法則でたまたま鍵盤の上に落ちてきたとでもいうような。演奏はまた唐突に終わる。そして一瞬の休憩を挟んでゴルトベルク変奏曲が始まる。高橋悠治ゴルトベルク変奏曲について「バロックの語源としてでもあるゆがんだ真珠のばらばらな集まりとしてはじめて触れた音のようにして未知の音楽をさぐるのが毎回の演奏であり..」と書いているが、確かにピアノの音の一粒一粒からして常に正しいリズムから外れたたどたどしい「ゆがんだ真珠」としてあり、かつ、その即興性や恣意性のベクトルは妙に均一で淡々としており感情的な抑揚は殆ど感じられない。ゴルトベルクはグールド盤で何度聴いたか分からないが、高橋悠治との決定的な違いはその辺にある。グールドは鉄壁の恣意性によって即興性を隅々まで統御しようとした。彼の遺作のゴルトベルクは確かにそのレコード芸術としての極地だとは思うが、その鉄壁の恣意性ゆえの閉塞感や哀しさが漂っているのを感じるのは僕だけであろうか。高橋悠治のゆがんだ真珠作りに付き合いながら、唐突に始まり唐突に終わるよく分からない自然法則や、遊びとしてのトリルの羽ばたきが真珠の輝きをを何倍にも増しているのを目の当たりにしたりするほうが、現在の僕の心は喜んでいるようである。ゴルトベルクは今やいわゆる名曲と言われているが、高橋悠治のやつは途方もなく変な曲に聴こえた。そして数回のアンコールの拍手に迎え入れられて、シューベルトソナタを披露。原曲は感傷的な佳曲であるが高橋悠治のアプローチは相変わらず。未知のものとして触れ合うこと、である。終演。モモさんと金子さんが談笑しているうちに、植野さん清美さんと挨拶して喫煙所で植野さんとテニスツアーの相談など。CDを買った人はサインを貰えるとのことだったので、何となく長蛇の列の最後尾に並んでCDのインナーにサインをしてもらう。ついでに、痒いのか猿のようにひたすらボリボリ首筋を掻いている高橋悠治と何となく握手してもらったが、後に感触は殆ど残らなかった。手は僕よりかなり小さかった。モモさんと会場を出て、高橋悠治から受けた感銘についてあれこれ話しながら、築地の「廻るすしざんまい」へ。えんがわ、カンパチ、寒ブリ、いくら巻き、ほたて、あら汁、サーモン、穴子、あぶりトロ、ネギトロ、アジ、イカ、中トロ、大トロで、一人2000円くらい。コストパフォーマンスは確かによくて美味いが、寿司道はまだまだ先が長いことを知る。