今年の夏はちゃんとした鰻を食すと決めていた。土用丑の日から遅れること4日、東京の鰻屋で3本の指に入るという荻窪の「安斎」へと向かう。今日も暑い。予約した時間に焼きあがるので遅刻は許されない。寂れたバス通りにある店の外見は、街角のごく普通の鰻屋という佇まい。そのあまりの普通さに唖然として緊張しながらも、我々は2組も入れば一杯になりそうな狭い店内に入った。たまらなく香ばしい香りを立ち昇らせながら炭火の上で黄金に輝く鰻の身と、汗だくでひたすら機械的に焼きを続ける店主の白焼のような顔が、薄暗い店内にぼうっと浮かび上がっている。まずはゆっくりと八海山を傾けながら、突き出しを味わう。大根、胡瓜、プチトマト、生姜、人参、赤蕪と、たっぷり皿に盛られた香の物。胡麻豆腐と肝の餡かけ。肝吸い。それぞれの食材が有する味の真髄が引き出されている全くスキのない高水準な職人仕事にひたすら感動。そしてほろ酔いになった頃に出される鰻丼。驚きだった。今まで僕が食べていた鰻は一体何だったのか。タレは甘く薄めで、脂の香ばしさと河の泥臭さがホクホクの柔らかさと共に口の中で鬩ぎ合い、鰻そのものが持つスリリングで有機的な旨さを堪能できる。食べ進む程にその素晴らしさが分かってくる味。夢中になってパクついているうちに、刹那の至福の時も終わってしまった。思わず溜息をつく。我々が店を出るとき、店主が「失礼します」と挨拶していたが、あれは一体なんだったのか。そういえば、営業中もひっきりなしに予約の電話が入っていたが、店主は夜寝ている間も、昼と同様に永久に予約の電話が続き永久に鰻を焼き続けるという夢しか見ないそうだ。永劫の反復でしかありえない人生は、地獄のような悪夢なのかもしれない。しかしながら、「ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見いだす。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛なことだともくだらぬこととも思えない。この石の結晶ひとつひとつが、夜に満たされた山の鉱物質の輝きひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ」(カミュ「シーシュポスの神話」)。

そんなことをあれやこれやと考えながら、我々は調布の花火大会へと向かった。